« お知らせ | トップページ | 気分を変えてみる »

灯が消えるような去り際

 友人が亡くなりました。1年以上の闘病生活経て、わずか30年弱の生涯を静かに閉じました。誰にも看取られずにひっそりと旅立っていきました。

 とはいっても、彼へのお見舞いは様々な方が頻繁に行っていました。看護婦さんもその見舞客の多さには驚いておられました。ご家族の弁では幼馴染から仕事仲間まで幅広い人に支えられていた、とのことでした。ご家族も毎日病院へ通い、手厚く彼の眠りを守っていました。病院でも丁寧な看病を受けていたように思います。

 彼は、ある日を境に眠り続けていました。

 私と彼は同じ仕事の同期採用で、ずっと近い職場で同じ仕事をしていました。彼は転勤を熱望し、ようやく実家の近くの職場に変わりました。初めて互いの職場が遠く離れた年の春、同じ出張が予定され、他にも同期採用のものが集まる日が彼と話をした最後です。その数日前に「久々に会えるね」「同期もおそらく全員集合だなあ」と電話がありました。久々にご飯を食べ、近況を聞こうと考えたことを覚えています。出張先はその年の春に移転されたばかりの建物でした。私は、どのぐらい時間がかかるかよく分からなくて、30分以上前に到着してしまいました。一人、二人と知り合いや友人が到着し、久々の再会を果たしけらけらと笑っていた時に、ケータイが鳴りました。彼からでした。移転したばかりの出張先がよく分からず、少し遅れるという連絡でした。電波状態が悪く、とぎれとぎれの会話でした。開始時間がきても彼は会場に姿を現しませんでした。1時間が過ぎ、私たちがおかしいと感じ、ケータイに連絡を取り始めました。でも、誰ひとりとして繋がりませんでした。

 その頃彼は、ドクターヘリで大病院へと運ばれていました。まさに生きるか死ぬかの瀬戸際に立っていたのです。

 そんな事とはつゆ知らず「もしかしたら家族に何かあったんかな?」「職場で何かあって呼び戻されたんでしょう」とのんきに考えていました。会場では担当者が激しく出入りしていたにもかかわらず、私たちには何一つとして知らされていなかったので、そんな埒もない想像をしていました。用務が終わり、友人たちと喫茶店でお茶を楽しみながら、結局来なかった彼に夜でも連絡をするか、と話し合いました。

 その夜、彼が電話に出ることはありませんでした。

 次の日の夜もう一度電話をかけてみました。律儀な彼なら着信履歴を無視なんかしない、だから余程忙しいんだろうか、とは思ったものの・・・電話に出たのは彼のお父さんでした。ざらりとした嫌な予感がしました。予感は当たりました。会場までたどり着いたものの、遅刻を気にした彼は階段を駆け上がり、そのまま心臓が停止し、倒れ、たまたま居合わせた医師から応急処置を受け、病院に搬送されたものの、45分もの間心臓が停止したと、今も生死の境にいるとのことでした。

 数日後彼のお母さんから電話をもらいました。心臓が停止した間、脳には血流がいかず、脳低体温療法を行ったが、芳しい結果は出ず、わずかに脳幹が生き残り、命は繋ぎ止めたものの、いつ、死んでしまうかわからないという連絡でした。別れの挨拶をして欲しいということでした。同期に連絡を取り翌日病院に向かいました。目にガーゼを当て、ぴくりとも動かない彼を前にし、全員で泣きました。友人と待ち合わせし、病院に何回か見舞いました。一時の生命の危機は脱し、安定を得ると、彼は転院を迫られました。現行の医療制度では3か月以上の入院は病院の利益にはならず、転院せざるを得なかったのです。

 彼は実家近くの病院に移りました。そこは彼の母校が近く、窓からは穏やかな光が差し込む静かな病院でした。自発的に声を発することも、手足を動かすこともできない状態でした。もちろん自力で食事をとることもできません。しかし、多くの方が彼を見舞い、彼の好きな音楽が病室には流れ、彼の好きな食べ物が届けられました。お母さんはその食べ物を顔に近づけてかおりを味あわせていたようでした。友人と連れ立って、あるいは一人で月に一度ほど顔を見に行きました。ご家族がいない時に見舞うと必ずお母さんからメールが届きました。彼が書くだろうな、というようなやさしい内容でした。

 そうして、1年以上が過ぎました。

 友人とそろそろ一緒にお見舞いに行こうか、とメールを交換しました。友人は丁度用事で、近くを通るから明日行くけど、また一緒に行こうねと書いてきました。でも、なぜだか翌日に私は病院に来てしまいました。友人は見舞った後だったようで、窓には「FIGHT」とジェルシールが貼られていました。いつもどおり世間話を一方的にし、看護婦さんに様子を聞き、以前に持っていったバンプオブチキンのMDを勝手に流し、「また来るわー」と言って病室を後にしました。

 次の日、よく晴れていて、友人とソフトクリームを食べに遠出をしていました。不意にケータイが鳴りとると、彼のお母さんからでした。別に不審に思わず出ました。しかしその知らせは彼が亡くなった、というものでした。1年以上もの闘病で疲れきっていたのか、明け方何の前触れもなく心臓が止まり、朝の巡回の時にはもう息をしていなかったそうです。たった一人で旅立っていってしまったそうです。「最後にあなたと彼女(=友人)を呼んだんかもしれんね」と言われました。真実は知りません。が、意識があるうちに最後に会話をしたのも、生があるうちに最後に見舞ったのも私であるということは一つの事実ではあります。彼の意志であるかは別として。

 彼のお葬式の日、妊娠中のものを除き、あの日会うはずだった同期が5人集まりました。1年ぶりの再会でした。そして、以前近くで勤めた先輩方もたくさん来ていました。彼の生家の近くの海辺の会場で彼を見送りました。彼の元気だったころの遺影は見覚えのあるセーターを下に着込んだスーツ姿のものでした。ああ、この人は猫みたいな目をして笑ったよな、と思いながら、お別れの時間が過ぎていきました。一緒にお芝居を見に行ったり、音楽を聴きに行ったり、鍋をしたりしたよな。釣りにも行って夫婦に間違われたよな。長電話なんかもよくした。たいていはいろんなことがらを独特の素直さと優しさで受け止めて、損ばっかりしてた。愚痴を言うよりは聞き役で、怒ってばかりの私を宥めていた。1年以上も自発的には動けず、本当は何を思っていたんだろうか?もう、体の辛さからは解放されたろうか?色々な思いや疑問が消えなませんでした。

 残されたものは彼の去り際にいろいろな意味づけをします。それは独りよがりかもしれません。偶然に過ぎないことに意味を見出しているだけかもしれません。でも、彼を大事に思い、大好きだったことは事実です。だからこう思いたいのです。「もう、体は辛くないよね?心は自由になったよね?大好きだった海の近くに帰ってこれたんだよね?」最後にお別れを言わせてくれてありがとう。あなたの育ちの良さからくる、明るさ、素直さ、優しさ、強さが本当に大好きだったよ。でもさあ、恨み言を言うなら、もう会えなくてもいいからどこかで幸せに暮らしていてほしかったよ。なんか職場に電話をかけたらいそうな気がするよ。ねえねえ、今何してんの?

あなたの眠りがどうか穏やかで、安らぎに満ちたものであるように・・・

|

« お知らせ | トップページ | 気分を変えてみる »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

onomotさん、こんばんは。
今、初めてご友人の状況を知って、弟が倒れた時とよく似ているので、驚いています。
弟も、出勤途中で具合が悪くなったようで、勤め先(と言っても派遣先)の医務室で横になっていて、気付いた時には息をしていない状態だったそうです。
30分くらいは心停止の状態だったのではないか?と言うことでした。
運命と言えばそれまでですが、もし、ご友人も私の弟も「今日は何となく調子が悪いから遅刻してもイイや」とか「休んでしまおう」と考えるような性格だったら、こういうことは起こらなかっただろうな、と思います。
まじめに出勤する気持ちが強かったから、こうやって、心停止しても生きることが出来たのだと、倒れてモノを言えなくなっても私たちに生きることの意味を教えてくれていたのだと信じています。
onomotさんの悲しみが癒されますように、ご友人の魂が、天の御国で安らかに憩われていることをお祈りしています。

投稿: いちごいちえ | 2008年10月20日 (月) 00時08分

何てお声をかけたらいいのか…。お友達のこと、私も懸念しておりましたが、こんなご報告を聞くことになるなんて。今は、言葉が浮かびません。
実は「存在証明がない」という記事にコメントを書きは消し、書きは消していました。なかなかコメントを送信できずにいました。思いきって…と思っていたところ、今回の訃報。onomotさんの心情を思うと、私も辛いです。
天寿を全うした年齢の方ならまだしも、まだまだこれからという年齢の方が亡くなられるのは本当に辛いです。私は同級生を10歳で一人、17歳で三人、20歳で一人亡くしました。昨年は職場の先輩のご主人が突然亡くなりました。37歳でした。残された家族のことを思うと、切なくて切なくて…。
仲良しだった彼は、これからも絶対onomotさんに力を授けてくれますよ。仕事で壁にぶつかった時、悩みが出来た時、心の中で彼に相談すれば、解決策を導き出せるはずです。
少しずつ少しずつ、笑顔を取り戻してください。
うまく励ますことができなくて、ごめんなさい。ご冥福を心よりお祈りいたします。

投稿: ぴろろ | 2008年10月20日 (月) 14時29分

コメントありがとうございます。
彼はゆっくりと生を終えた感覚があるので、回復を祈る気持ちとを持ちつつも、ある種の覚悟はしていました。突然亡くなってしまうのとは違い、ショックは少なかったように思いますが、存在の重さのためか喪失感はなかなか大きいなあというのが実感です。
ただ、本当に人柄の良い、温かい人でしたので私が彼より受けた影響は大きいです。そういう意味では、彼の人柄の一部が多くの人に何らかの影響や和みを与えていたのではないかと思います。そうであるならば、私も含め、彼の周りの人は何らかの「彼のかけら」を抱いて今後も生活していくと思います。彼の存在は本当に大きい。生きていても、眠っていても、亡くなっても・・・
いちごいちえさんのおかげで遷延性意識障害に関する本に出会い、ご家族の心情の一端も知ることが出来、本当に感謝しております。また、弟さんの回復を心より祈っております。また、ブログの方にも寄らせてくださいね。

投稿: いちごいちえさんへ | 2008年10月20日 (月) 19時25分

コメントありがとうございます。
最近なんだか重い話が多くて、なんとか明るい話を書きたいなあ、と思いつつもこういった話になってしまいました。
生前、彼が与えてくれたものは大きくて、多少なりとも私が成長できていたとすれば、彼に依るところが随分とあるなあ、と思っています。自分を作り上げていく上でのどこかしらの要素になっていると思います。この先の自分はなかなか見えてきませんが、投げやりになったりすることを彼が望んでいるとも思えません。(泣くこととか結構嫌う人だったので。たぶんどうしていいか分からなかったんでしょう・・・)できるだけ素直に進んでいくことを望むのではないかと思います。彼のご両親のことを思うと言葉もないのですが、今後も私たち友人が彼と出会ったことで育まれた良い部分を多くの人に見せていくことも、彼がこの世にあった一つの存在証明なのかな?と考えています。
本当に温かいお言葉ありがとうございます。もう少しいじいじさせてもらって、また、一歩進みたいと思います。

投稿: ぴろろさんへ | 2008年10月20日 (月) 19時36分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« お知らせ | トップページ | 気分を変えてみる »